今の時代における神聖な啓示の先見者 ウオッチマン・ニー


この時代のためにユニークな賜物を興す

中国への主の動き
 創造において、神は人が地に満ちて、すべての造られた物を管理するよう定められました(創一・二八)。贖いにおいて、主は弟子たちを、地上での彼の王国のために、全世界に出ていって福音を宣べ伝え、すべての国民を弟子とするようにと、任命されました(マルコ十六・十五、マタイ二八・十九)。ペンテコステ以後、半世紀足らずのうちに、地中海周辺の地域は福音化され、初めの二世紀のうちに、福音はヨーロッパへ広がりました。しかしながら、福音は十世紀以上も、そこに限定されました。アメリカの発見の後、福音はヨーロッパからの移住を通して、西半球にもたらされました。しかしスペインが敗北するまで、福音は極東まで正式に広がりませんでした。
 第七世紀に、景教徒は彼らの宗教を、ペルシャから中国にもたらしました。景教は神聖な啓示からそれたものであって、純粋な命の福音ではありませんでした。中国の唐の時代、三人の皇帝はこの宗教を受け入れました。ところが、二世紀の後、景教はその不正確さと命に欠けたゆえに、禁じられ、消滅させられました。その後、中国ではいかなる形のキリスト教の足跡もありませんでしたが、十三世紀にフランシスコ会、十六世紀にイエズス会が来ました。彼らは西洋の学問を身につけましたが、やはり命に欠けており、伝統的規定に満ちていました。彼らは保守的な中国人に勝てるほど、力がありませんでした。中国人は、孔子の倫理的教えに浸透されており、仏教の迷信に誤導されていたのです。十九世紀の初めになって、純粋な福音と聖書が、中国にもたらされました。
 スペインは十六世紀には、カトリックの世界で権力がありましたが、戦いに敗れた後、神の主権的な恵みの下で、多くのプロテスタントの宣教団体がヨーロッパとアメリカで起こされ、何百人という宣教士たちを、異教の国々へ遣わしました。その宣教士たちは、他のどの国よりも多く中国に遣わされました。十九世紀の初めに、ロバート・モリソン(Robert Morrison)が中国最南の省の中心、廣州(クァンツォン)に上陸しました。組合教会、メソジスト、聖公会の人たちが、南の福建省にやってきました。アメリカ長老派、南部バプテスト派の人々が、北方の山東省にやってきました。アライアンス教団が来たのは、上海の国際港にでした。中国内地会は、内地の省を多く開拓しました。そして他の宣教団体は、多くの他の地域に住みつきました。これらの宣教士たちの多く、特に開拓者たちは、神の人でした。彼らは主の使命のために多く犠牲を払い、福音のために幾多の苦難を受けました。彼らの開拓の働きを通して、中国で多くの門が開かれ、暗黒と罪の中にいる何千何万という人々が主に導かれ、主の救いを受け入れました。これらの宣教士たちは、三つの宝を持ってきました。それは、主の名(すなわち主ご自身)と福音と聖書です。わたしたちは、このゆえに主に感謝します! しかしながら、その福音は、中国の知識階級の人には十分に提示されませんでした。また命と召会に関する真理は、二〇世紀の初めの十年まで、効果的に解き放たれませんでした。
 一九〇〇年に、サタンは扇動して義和団の乱を起こしました。この暴動で、多くの宣教士と数え切れない中国の信者が殉教しました。サタンの意図は、中国における主の動きを終わらせることでした。しかし神の主権の下で、この迫害は、西洋世界の聖徒たちの間に大きな負担を起こして、中国における主の動きのために、切 に祈らせました。わたしたちは、主がその切実な祈りに答えてくださったと信じます。この義和団の乱の後、中国での信者たちの間に、何人かの有能な伝道者が起こされました。これらの「中国本土の」伝道者たちは、福音を宣べ伝えることでとても力がありました。そして彼らの宣べ伝えは、中国の新しい世代の学生たちに届きました。一九二〇年ごろ、福音は多くの学校に入っていきました。そして全国の北から南まで、多くの高校生や大学生が主に得られました。とても優秀な人たちが主によって召され、装備されて、主の働きを行ないました。
ウオッチマン・ニーが起こされる
これらの傑出した学生の一人が、倪述祖(ニー・スゥツゥ)でした。彼の英語名は、ヘンリー・ニー(Henry Nee)でした。彼の祖父、倪玉成(ニー・ユーチェン)は、福州のアメリカ会衆派(組合系)の大学で学び、福州北部の会衆派の、中国人の初代牧師になりました。彼の祖母は、福州のアメリカ会衆派女学院の学生でした。彼の父親、倪文修(ニー・ウェンシュウ)は、二代目クリスチャンで、福州のアメリカ・メソジスト大学で学び、中国語の古文に熟達していて、中国税関の職員になりました。彼の母親、林和平(リン・ホーピン)も、二代目のクリスチャンで、上海の中西女学校で学びました。この学校の英語の水準は、かなり高いものでした。倪述祖は、三代目のクリスチャンで、福州の聖公会三一学院で学びました。これは二年制の大学で、中国語、英語とも、水準はとても高かったのです。彼は、主によって起こされ、使命を遂行するようになって、新しい英語名をウォッチマン・ニー(Watchman Nee)に、新しい中国語名を倪析声(ニー・トーシェン)にしました。それは、見張り人が夜回りして時を知らせる音を意味します。主によって召され、新しく再生されたクリスチャンとして、彼は自分自身を、見張り人、すなわち暗い夜に起こされて人々に音を立てる者と見なしました。結局、彼は主の豊かなあわれみと恵みによって、この時代に与えられたユニークな賜物となりました。ウオッチマン・ニーは、主が地上での回復の動きのために、彼のからだに与えられました。それは、単に中国のためだけでなく、全世界のためでした。