完全に根本主義的になって、すべてを含む霊にしたがって歩く


霊にしたがって行動する

 しかしながら、正しい立場に立って、完全に根本主義的であるだけでは十分とは言えません。わたしたちが何であるか、どのように生きるか、どのように振る舞うかが重要なのです。旧約の神の民は、モーセを通して、律法と呼ばれた一組の書を受け取りました。今日、神はわたしたちを律法によってではなく、調合され、命を与える、内住する、究極的に完成された霊にしたがって取り扱っておられます。旧約の時、神の民は律法にしたがって振る舞うことを求められました。今日、わたしたちは新約によって、調合され、命を与える、すべてを含む霊にしたがって振る舞うよう求められています(ローマ八・四)。  神は、モーセの律法にしたがって、ユダのすべての善い王たちを詳細に取り扱われました。だれであれ、この律法に対して間違いを犯すなら、良き地の大部分の享受を失うでしょう。これは、今日、わたしたちが霊の法則にしたがって振る舞わなければならないことを予表し、表徴しています。霊の法則とは、調合された霊であるその霊ご自身にほかなりません。
 わたしたちはすべての事で注意深くあることが必要です。例えば、わたしたちが夫または妻に話しかける場合、その霊にしたがって話しかけなければなりません。わたしたちはすべての事で、霊にしたがって歩く必要があります(ローマ八・四)。わたしたちは、自分の言葉、行ない、表情、態度、霊、意図が、命を与える、調合された、すべてを含む霊によって清められているかどうか常に警告されて、注意している必要があるのです。そうでなければ、わたしたちは今日の良き地であるキリストの享受を大いに失うことになるでしょう。
 今、わたしたちは旧約の歴史書を学んでいます。わたしたちはこれらの書に記録されたすべての事から学課を学ぶ必要があります。アサの事例について考えてみてください。彼は善い王で、多くの良い事をしました。ところが、彼はスリアの王ベネ・ハダデと同盟を結んだがゆえに神を怒らせました(歴代下十六・一―六)。さらに、彼はエホバに信頼せずに、スリアの王に信頼したことを非難した先見者に対して腹を立てました。アサが足に重い病気を患ったのは神を怒らせたためだったのかもしれません。ついに、彼はこの病気がもとで死んでしまいます(七―十節、十二―十三節)。
 歴史書に記録されている事例から、神は愛すべき神であるだけでなく、恐るべき神でもあることがわかります。ですからピリピ人への手紙第二章十二節でパウロが言っているように、わたしたちは恐れとおののきをもって、わたしたち自身の救いを成し遂げなければならないのです。