今の時代における神聖な啓示の先見者 ウオッチマン・ニー


ニー兄弟が受けた啓示

 ウオッチマン・ニー兄弟は、すべての真のクリスチャンが保っている聖書的、根本的信仰を完全に信じていました。彼は聖書が神の聖なる言であることを信じ、一字一句がみな神の啓示であることを信じました。彼は、神が三一
― 父、子、霊であり、三の区別はあるが、完全に一であり、永遠から永遠まで同時同存、相互内在しておられることを信じました。彼は、イエス・キリストが神の御子、神ご自身でさえあり、人として受肉して、人の命と神聖な命を兼ね備えられたこと、十字架につけられて死に、贖いを達成されたこと、三日目に死人の中から体を伴って復活されたこと、天に昇って御座に着き、栄光を冠らせられ、万有の主とされたこと、再来して、彼に従う者たちを迎え、イスラエルを救い、地上に彼の千年王国を打ち建てられることを信じました。彼は、イエス・キリストを信じるすべての者が神によって赦され、贖いの血で洗われ、信仰によって義とされ、聖霊によって再生され、恵みによって救われることを信じました。そのような信者は、神の子供であり、キリストのからだの肢体です。彼はまた、信者めいめいの定めが、召会、すなわちキリストのからだ、神の家を構成する一部分であることを信じました。
 この五つのクリスチャン信仰の基本的な面以外に、ニー兄弟はまたさらに光を得て、五十三項目の聖書の教えに関して、主からはっきりした啓示を受けました。これらは、クリスチャンの信仰を十分に理解し、実行するために極めて重要です。

一、救いの確信
 主がまずニー兄弟に啓示された基本的項目の一つは、信者の救いの確信です。当時、全中国において、救いの確信の聖書的教えは、どのクリスチャン団体でもほとんど教えられていませんでした。しかしながら、ニー兄弟はこの事柄にとてもはっきりしたので、クリスチャンに福音を宣べ伝えて、彼らが救われたことを認識するのを助けました。彼は聖書のはっきりした御言を用いて、信者が自分の救いに対して、完全に確信できることを示すことができました。彼は疑問のある人たちを、聖書によって、例えばヨハネによる福音書第三章十六節のような節を彼らが取り、この節を消化して、これが確定的であり、決して滅びないと感じるまで助けました。彼はまた、神の霊が彼らの内に住んで、彼らの霊と共に、彼らが神の子供であると証しすることを指摘しました(ローマ八・十六)。ニー兄弟はさらに、ヨハネの第一の手紙第三章十四節から、救いの確信を挙げました、「わたしたちは死から命へと移っていることを知っています.なぜなら、わたしたちは兄弟たちを愛しているからです。愛さない者は死の中に住んでいます。」
二、恵みと律法との区別
 当時の大多数のクリスチャンが救いの確信を持っていなかったのは、彼らが恵みと律法との区別を知らなかったからです。ニー兄弟は、救いはただ恵みによるのであって、律法のわざによるのではないという、主の明確な啓示を受けました。もし救いが律法の事であるなら、それはわたしたち自身の行ないによることになります。しかし救いは主の恵みによるのであって、彼が何であられるか、また彼がわたしたちのために何をされたかによります。
三、救いと勝利との違い
 あるクリスチャンは、救いと勝利との違いを知りません。これは、自分の救いが不確かであるもう一つの原因です。わたしたちが主イエス・キリストを信じた瞬間、わたしたちの救いは永遠に定まります。ところが勝利は、罪、この世、肉、自己、日常生活のいっさいの消極的な事物に打ち勝つことです。わたしたち神の子供は、ただ主イエス・キリストを信じることによって、救いを得ます。わたしたちの永遠の運命は、永遠に堅固です。ところが勝利は、わたしたちの日常生活においてであり、経綸上の褒賞と関係があります。
四、救いと褒賞との違い
 クリスチャンがもし救いと褒賞の区別について、はっきりしていないなら、自分の得た救いの確証に問題があるようになります。この区別は、ニー兄弟に対して完全に啓示されました。救いは恵みにより、信仰を通してですが(エペソ二・八)、褒賞は主の御心に従って働いた結果です(マタイ十六・二七、第一コリント三・十四)。
五、天の王国と永遠の命との違い
 あるクリスチャンは、自分が救われているとはあえて言いません。なぜなら彼らは、永遠の命を持つことと天の王国に入ることとの違いがはっきりしていないからです。人が主イエスを信じて救われる時、永遠の命を得ます。ところが天の王国に入るには、必ず天的統治の下で日常生活を生きなければなりません。そのような生活は、現在の召会時代における一種の訓練であって、王国時代に主の千年王国の統治にあずかる資格をわたしたちに与えます。このような分け前は、天の統治の下で生活した褒賞であって、それは永遠の救いの事柄ではありません。この事で、ニー兄弟は徹底的な、はっきりした啓示を受けました。
六、王国の真理
 ニー兄弟はまた、新約の中で王国の真理を完全に見ました。彼は新約の中に、天の王国と神の王国との区別を見ました。神の王国は、神のすべての支配を包含し、過去の永遠から将来の永遠にまで至ります。ところが天の王国は、神の王国の中の比較的小さい範囲です。それは現在の召会時代における信者の間での天的支配(マタイ五・三、十)と、来たるべき王国時代での褒賞です(マタイ五・二〇、七・二一)。すべての再生された信者たちは、神の王国にいます(ヨハネ三・五)。しかし天の統治の下に生活した者だけが、王国時代を褒賞として受け継ぎます。神の王国は救いと関係がありますが、天の王国は褒賞と関係があります
七、携え上げられる
 王国の啓示と共に、主はまたニー兄弟に携え上げの啓示を与えられました。今日の根本的神学は、クリスチャンは救われさえすれば、みな普遍的な携え上げにあずかり、主の再来の時、全召会と共に、大患難の前に携え上げられる、と告げています。しかしニー兄弟は、すべてのクリスチャンが同時に携え上げられるわけではないことを見ました。ある信者たちは、大患難の前に成熟した勝利者となります。ですから、彼らは先に携え上げられるでしょう。しかしながら、大多数の信者は後で成熟するので、遅れて携え上げられるでしょう。王国は褒賞の事柄であり、携え上げは成熟の事柄です。携え上げられることは収穫物に例えられます。農作物がまだ青いうちは、刈り取られて納屋に入れられることはありません。それは熟してはじめて、刈り取られます。すべてのクリスチャンも、命において成熟しなければなりません。彼らが成熟する時、主は彼らを刈り取り、彼らを天の納屋にもたらされるでしょう。次の二つの点を、しっかり心に留めなければなりません:1) 王国は勝利の信者たちに対する褒賞である、2) 携え上げには勝利者の成熟が要求される。
八、キリスト教の逸脱
 ニー兄弟と年若い数名の信者たちは、救われるとすぐ、聖書を学ぶことによって、今日のキリスト教がいかに不正常であるかを認識し始めました。その当時、彼らはまだ学生でした。主は彼らに、今日、実行されているキリスト教は、神が聖なる言葉の中で定められた方法とは、ほとんどあらゆる点で逸脱していることを見せられました。
九、召会、エクレシア、キリストのからだ
 主はニー兄弟に、彼の召会について明らかな啓示を与えられました。ニー兄弟は、召会は建物ではなく、組織やキリスト教の団体でもないことを、宣べ伝え、教えました。召会は有機体であり、生けるからだです。別の面で、召会はエクレシア、召された者たちの会衆です。
十、召会の二つの面
 ニー兄弟は、召会には宇宙的な面と地方的な面があることを見ました。全宇宙には、ただ一つの召会、神の召会があるだけです(第一コリント十・三二)。この唯一の召会は、地上の多くの地方において表現され、それぞれの地方には一つの地方召会があります。宇宙召会はすべての地方召会から成っており、地方召会は宇宙召会の実際的な表現です。マタイによる福音書第十六章十八節で宇宙召会が啓示されており、マタイによる福音書第十八章十七節で地方召会を見ます。地方召会がなければ、宇宙召会にあずかるすべはなく、実行上の地方召会を持つ方法もありません。使徒行伝、書簡、啓示録において、召会は地方召会として表現されています。すなわち、エルサレムに在る召会、アンテオケに在る召会、エペソに在る召会などです。召会の行政は宇宙的ではなく、地方的です。
十一、宗派
 ニー兄弟は、召会についての啓示と同時に、宗派の邪悪をも見ました。宗派はキリストのからだを、多くの組織に分けます。これは聖書で罪に定めていることです(第一コリント一・十一―十三)。
十二、聖職者制度と宗教組織
 ニー兄弟は光を得て、聖職者階級と平信徒制度が間違っていることを見ました。この制度は、キリスト教の組織の中の聖職者、階級、地位を含み、それは一種の人為的組織となりました。ローマ・カトリック教会には、神父、司教、大司教、枢機卿、法皇がいます。英国国教会には、牧師、主教、大主教、その地を統治する元首がいます。プロテスタントには牧師がいます。このような聖職者階級制度は、明らかに新約の啓示に反するものであり、キリストのからだの肢体の機能を抹殺します。宗派は、キリストのからだを粉々にし、聖職者制度は、キリストのからだのすべての肢体の機能を破壊します。
十三、普遍的な祭司職
 普遍的な祭司は、ニー兄弟に啓示されたもう一つの真理です。彼は、新約の祭司職が旧約の祭司職と違うことを見ました。旧約の祭司職は、結局アロンの子供たちに与えられ、一般の民と違った聖職者階級を生み出しました。ところが新約の祭司職は、すべての信者に与えられています(啓一・六、第一ペテロ二・五、九)。新約には聖職者も平信徒もなく、全員が祭司です。
十四、正当な長老職
 ニー兄弟は聖書からはっきりした啓示を受けて、召会は一団の長老たちによって管理されるべきであることを見ました。すべての地方召会は、一団の老練な兄弟たちが、人を導き、監督して、召会のいっさいの活動を顧みる必要があります。聖書では、この人たちのことを長老、あるいは監督と呼んでいます。
十五、職務と賜物との違い
 ニー兄弟は聖書から、召会の職務と賜物とが違うことを見ました。召会の職務は長老と執事を含み、それは地方的です(ピリピ一・一)。賜物は預言者、伝道者、牧する者と教える者を含み、それは宇宙的です(エペソ四・十一)。
十六、バプテスマとパンさき
 主はニー兄弟に、正当なバプテスマの方式は水の中に浸すことを啓示されました。主はまた彼に、聖書に従ったパンさきを実行する道を示されました。バプテスマは、信者の古い生活が終結し、この世から分離して、主と主のからだへと聖別されたという証しです。パンさきは主を記念することであり、彼のからだの合一と交わりを証しします。
十七、頭のおおいと按手
 ニー兄弟はまた、頭のおおいと按手を正しく実行することの聖書的意義を見ました。頭のおおいは、召会において、キリストの頭首権に服従するという表現です。按手は連合の行為であって、からだの一の中で行なわれることが、からだの他の肢体への分与であることを示します。手を置くことによって、霊的賜物は肢体に分け与えられ、キリストのからだの肢体の間で、交わりが実際化されます。
十八、神にある信仰によって生きる
 ニー兄弟は、真の神に仕える人は必ず神に信頼する生活をするべきであって、宗教組織に雇われてはならないことを見ました。ニー兄弟が務めを始めたころには、信仰による生活の実行は、中国では実際的に知られていませんでした。ブラザレンは彼らの間で主に仕える人を雇いませんでしたが、彼らが中国に来た時には、彼らも中国の信者たちに神に信頼する生活を教えるのは不可能である、と思っていました。信仰によって生活することは、根本的に中国のクリスチャンの観念にはありませんでした。しかしながら、ニー兄弟は、このことを教えただけでなく、彼自らがこれを実行しました。
十九、神のいやし
 ニー兄弟は、聖書から神のいやしを信じただけではなく、彼自らそれを経験しました。彼にとって、それは単に外側の奇跡的賜物ではなく、内側の経験であり、それは命における建造を生み出します。
二〇、キリストの死と復活
 主はニー兄弟に、キリストの死と復活について特別な啓示を与えられました。彼は、キリストの死に二つの面があることを見ました。客観的な面は、わたしたちの罪、もろもろの罪、この世、サタン、暗やみの勢力を対処しました。主観的な面は、わたしたちの肉、自己、古い人を対処しました。彼はまた、キリストの死の中に、旧創造が終結させられていることを見ました。これは十字架の消極面です。積極面では、キリストの神聖な命が解き放たれて、新創造を発芽させました。わたしたちの主の復活において、彼の神聖な命は解き放たれて、信者を再生し、彼らをキリストのからだの肢体としました。彼の復活から、召会は出現し、また彼の復活において、キリストのからだは建造されつつあります。彼の復活の大能の中で、信者は十字架を担うことができ、またキリストの苦難の交わりの中で、彼の死に同形化されるのです(ピリピ三・十)。主の民は、キリストの復活の命を享受し、力を受けて、地上を歩んではいても、聖なる、天的な生活を生きるのです。この復活は、復活のキリストご自身であり、キリストの霊は、復活の実際です。
二一、キリストの昇天
 ニー兄弟は、キリストはすでに昇天して、万有のはるか上におられることを見ました。地の引力、悪鬼、空中の権を持つ君、いっさいの暗やみの勢力も、彼を阻止し、彼をとどめておくことはできませんでした。これらは今、すべて彼の足の下にあります。彼は昇天によって、万有の主となられ(使徒二・三六)、また昇天によって、すべて彼に従う者たちを、天的場所にもたらされました(エペソ二・六)。彼の地位、彼の務め、彼の命は今や、すべて天的です。彼は今、天の命と天そのものを彼の民へと供給して、彼らを天的民にし、地上で天の生活を生きさせる、という働きに就いておられます。
二二、キリストの再来
 ニー兄弟は、キリストの再来に関する明確で、透徹な展望を得ました。彼は主の来臨(ギリシャ語はparousia パルーシア)に、秘密の面と公の面があることを見ました。目を覚まして彼を追い求め、彼の再来を待ち望んできた人たちに対して、彼は大患難の前に、天から空中へと、盗人のようにひそかにこられます(マタイ二四・四三、啓三・三)。ところがこの世に占有された人々に対しては、彼は大患難の後に、空中から地上へと、いなずまのひらめきのようにこられます(マタイ二四・二七、三〇)。彼のひそかな来臨において、信者たちは空中に携え上げられるでしょう。しかし彼の公の来臨は、地上のこの世に対する裁きをもたらします。
二三、聖霊の内住
 十字架につけられ、復活し、昇天されたこのキリストは、今や命の霊として彼の民の霊に内住し、キリストを彼らにとって実際とならせます。このキリストの内住の霊は聖霊であり、神の霊でもあります。神聖な霊の主要な機能は、神聖な命を神の民へと分け与えて、彼らを再生し、彼らを油塗り、神の成分で彼らを浸透して、聖別し、造り変えることです。ニー兄弟は、この面について多く供給しました。
二四、油塗りの教え
 ニー兄弟は聖霊に関する啓示と共に、また油塗りの教えについて光を受けました。油塗りは、わたしたちの霊の中での聖霊の動きと働きです。油塗りは内側から、わたしたちにすべての事を教えます(第一ヨハネ二・二七)。命の法則は旧約の律法に置き換わり、油塗りの教えは旧約の預言者に置き換わります。わたしたちが主の中に住むのは、油塗りの教えによります。
二五、聖霊の注ぎ
 ニー兄弟は、聖霊の二つの面を見ました。それは命のための聖霊の内住と、力のための聖霊の注ぎです。主は死人の中から復活した日、弟子たちの中に聖霊を息吹かれました(ヨハネ二〇・二二)。その時、聖霊は弟子たちに入り、彼らの内に住まわれました。それは、命を分け与えるためでした。ところがペンテコステの日、聖霊は弟子たちの上に注がれました(使徒二・四、三三)。この霊の注ぎは、弟子たちに力を与えるためでした。これは、その霊の第二の経験であって、聖書は聖霊のバプテスマと呼んでいます。大部分のクリスチャンは、その霊の二つの面の違いを見ていません。しかしながら、ニー兄弟はこの区別について、はっきりとした啓示を受けました。彼は異言で語ったことはありませんが、何度も聖霊の注ぎの経験を受けています。
二六、人の三部分
 ニー兄弟は彼のクリスチャン生活の初期に、人には三部分、霊、魂、体があることを見ていました(第一テサロニケ五・二三)。彼は、魂は人の人格であること、体は人の外側の部分であって、物質の世界に接触するためであること、霊は人の最も内なる部分であって、霊の世界に接触するためであることを見ました。神は霊ですから、必ずわたしたちの霊の中で、彼を礼拝し、彼に仕えなければなりません(ローマ一・九、ヨハネ四・二四)。信者は彼らの霊の中で、神の霊によって再生され、神の霊は彼らの霊と共に証しをし(ローマ八・十六)、主イエスは彼らの霊と共におられ(第二テモテ四・二二)、彼らは主と一つ霊です(第一コリント六・十七)。霊は魂と分離されなければなりません(ヘブル四・十二)。それは、信者が彼らの霊の中で歩み、生き、働いて(ガラテヤ五・十六、二五)、霊の人となる(第二コリント二・十四―十五)ためです。
二七、信仰による聖別
 一九二五年より少し前に、ニー兄弟は、信仰による聖別を見るようになりました。彼はジョン・ウエスレーの聖別に関する教えから光を受けましたが、ウエスレーの教えは真の聖別でなく、罪なき完全である、と言いました。彼は学びを通して、ブラザレンが聖別の幻で、ウエスレーよりも一歩前進していることを認識するに至りました。ブラザレンの聖別の教えは正確であるとはいえ、あまりにも客観的で、地位上の変化にすぎないものでした。ブラザレンは、この世の金は俗であるが、宮に置かれた金は聖別されている、と教えました。もう一つの例証として、ブラザレンは、羊、牛が群れの中にあるのは俗であるが、祭壇の上にささげられると聖別される、と教えました(マタイ二三・十七、十九)。ブラザレンはさらに例証を挙げて、市場の食物は俗なるものであるが、クリスチャンの食卓に置かれると、祈りによって聖別される、と説明しました。ニー兄弟は、これらの例証はみな外側の地位上の変化のことで、どれも内側の性質上の変化を指すものはない、と指摘しました。彼は、聖別は単に地位上の変化ではなく、それはまた性質上の変化でなければならない、と教えました(ローマ六・十九、二二)。
二八、命としてのキリスト
 キリストは、彼を信じる者たちにとって命です(コロサイ三・四)。この命は、彼らの霊の中の命の霊です(ローマ八・二)。信者が行なうことはすべて、この内なる命から行なわれなければなりません。すべての信者は、内なる神聖な命によって生きるべきです(ガラテヤ二・二〇)。
二九、命の霊の法則
 信者が主から受けた神聖な命は、聖霊の中にあります。聖霊は命の霊と呼ばれます(ローマ八・二)。この神聖な命には、それ自身の法則と特徴があり、またその機能は神の成分をもって、わたしたちを規制し、供給します。これは単なる外側の律法の文字ではなく、命の法則であり(ヘブル八・十)、それはわたしたちの内側の神の霊によって執行されます。ニー兄弟はこの内なる法則について、完全な啓示を受けました。このうちなる法則、いわゆる命の法則によって、わたしたちは罪と死の律法から解放され、義なる、聖なる生活を生きることができます。
三〇、罪と死の法則
 ニー兄弟は聖書から、罪と死は一つの法則であることを見ました(ローマ八・二)。この法則は、わたしたちの体の肢体の中にあり(ローマ七・二三)、それはサタンの邪悪な命から出てきます。すべての堕落した人は、その力の下にあります。しかし命の霊の法則は、罪と死の法則よりも力があり、それからわたしたちを解放することができます。
三一、さらにまさった契約
 主イエスが彼の血をもってわたしたちのために立てられた新契約は、旧契約にまさっています(ヘブル七・二二、八・六)。旧契約は旧約の律法に従っており、その祭司職は、肉につける戒めの律法によるものですが、新契約は命の法則に従っており、その祭司職は、朽ちることのない命の力によるものです(ヘブル八・十、七・十六)。
三二、キリストの勝利の命
 キリストは、サタンと宇宙のいっさいの消極的な事物に勝利を得られたので、彼の命は勝利の命です。もしわたしたちがキリストによって生きるなら、彼の命はわたしたちのために、いっさいの消極的な事物に打ち勝ちます。
三三、勝利者の召し
 ニー兄弟は、勝利者の召しについて啓示を受けました。全召会は失敗し、主の御心を満足することができなくなったために、主は来て、ある者たちを信者のうちから勝利者として召されました。これは、啓示録第二章、第三章の七つの書簡に、はっきりと啓示されています。全召会は目標からそれてしまったので、主は彼を愛する者たちに彼の召しを呼びかけて、彼らが堕落した召会に打ち勝つようにされました。
三四、霊的戦争
 一九二五年以前に、ニー兄弟は霊的戦争という事柄を見ませんでした。彼は、この宇宙における神の神聖な目的を達成するために、神と彼の敵、サタンとの間に生じる究極的戦争があることを見ました。この戦争は、すべての神の子供たちを巻き込みます。もし彼らがサタンの側につけば、神に反逆しているのです。もし神の側につけば、彼らはサタンと戦っているのです。すべての勝利の信者たちは、自分たちが戦場にいて、神の神聖な御旨のために戦っていることを、認識しなければなりません。この霊的戦争で戦うために、信者は必ず天的地位を見る必要があります。エペソ人への手紙第二章は、わたしたちが天で座に着いていることを、はっきりと見せています。エペソ人への手紙第六章は、わたしたちが天にいる諸勢力と戦っていることを、示しています。信者は天の地位を守らなければなりません。そうしてこそ、天にいる神の敵を打ち敗ることができます。もし信者の地位が地上にあるなら、彼らは敵の下にいるのですから、勝利の地位を失っています。
三五、地方召会の境界
 一九三三年と一九三四年に、ニー兄弟は、地方召会の境界が、召会が所在する都市を範囲とすることを見ました。彼は、都市の境界内に一つ以上の召会があってはならない、と指摘しました。これは自然に分裂を除去します。
三六、キリストの中心性と普遍性
 一九三三年と一九三四年に、ニー兄弟は、神の永遠の御計画の中に、キリストの中心性と普遍性を見ました。彼は宇宙の中で、またクリスチャン生活の中で、キリストは第一位であるべきことを見ました(コロサイ一・十八)。彼はまた新しい人、すなわち召会の中で、キリストはすべてであり、すべての中におられることを見ました(コロサイ三・十―十一)。
三七、地方召会の立場
 一九三七年に、ニー兄弟は地方召会の立場を見始めました。これは地方の境界をさらに進んだ一歩であり、信者たちが、いかなるものによっても分裂するべきでないことを示しています。召会の立場は一の立場です。わたしたちはどこへ行こうと、どこにいようと、その地の信者と一つであるべきです。一つの都市には一つの召会があるべきです。召会は、家庭に在る召会、工場に在る召会、大学に在る召会、ある通りに在る召会、その他、ある名称の召会はありません。地方召会は一つの都市に在る召会です。もし一地方に一つ以上の召会があるとしたら、その地の信者は分裂しています。
三八、移住
 ニー兄弟は使徒行伝から、福音を広める二つの道があることをはっきりと見ました。一つは、使徒が遣わされることによって、もう一つは、信者たちの移住によってです(使徒八・四)。彼の務めの下で、この二つの方法が、福音を広めるために用いられました。
三九、召会生活の実行
 一九三九年に、ニー兄弟は召会について、さらに進んだ光を受けました。今回は、召会生活の実行についてです。彼は、新約からはっきりした光を受けて、長老がどのように実際に長老職を遂行するべきか、執事、女執事がどのように聖徒たちと召会に仕えるべきかを見ました。彼はまた、召会のすべての肢体を助けて、召会の諸事にあずからせました。
四〇、召会の実際
 召会の実行面と共に、ニー兄弟は召会の実際を見ました。彼は、召会の内容はキリストがすべての肢体の中で生き、すべての肢体を通して生かし出されるべきである、と強調しました。キリストでないものは、召会ではありません。実際的に言って、召会はキリストです。ですから、キリストは召会の実際であり、召会はキリストの表現であるべきです。
四一、召会の一
 召会の真の一は、その霊の一です(エペソ四・三)。真の一は教理、意見、ある実行の一ではありません。真の一はその霊ご自身です。教理において、あるいは物事を行なう方法で一つであったとしても、その霊の中にいなければ、真の一はありません。
四二、からだを見る
 一九三九年から一九四二年に、ニー兄弟は、キリストのからだの幻について、絶えず負担がありました。彼は、クリスチャンが教理的にではなく、実行的にからだを見るようにと、助ける負担を持ちました。彼は絶えず、からだを見ることが個人主義を不可能にする、と強調しました。人がいったんからだを見るなら、団体的に振る舞い、行動します。
四三、からだの中での聖霊の権威
 ニー兄弟は、キリストのからだが有機体である以上、聖霊はあらゆる面で、すべての事の上で、権威を持っておられるはずであることを見ました。からだの活動はすべて、聖霊の権威と指図の下になければなりません。
四四、聖霊の実際
 聖霊はすべての霊的事物の実際です。「霊的事物」という言葉も、聖霊ご自身がすべての霊的事物の内容と実際でなければ、むなしく、空虚です。聖霊はクリスチャンの命の実際であり、クリスチャン生活の実際です。彼らが何であろうと、何をしようと、実際としての聖霊を持たなければなりません。
四五、召会の権威
 実際的な召会生活の実行について、ニー兄弟は権威の必要性を見ました。かしらとしてのキリストが彼のからだの肢体に与える権威は、代表権威と呼ばれます。地方召会はこのような代表権威の下で、麗しい秩序の中になければなりません。この権威は、地方召会の建造のために極めて重要です。こうして、召会は一つの直立した器となります。このためには、服従が必要です。
四六、召会の建造
 主がニー兄弟を通して啓示されたことですが、信者は必ず召会の権威の下に、地方召会の中で、他の人たちと実際的に建造されなければなりません。このような建造は、真に霊的であることのテストです。もし地方召会の中で他の人と建造されないなら、その人の霊的であることは疑問です。
四七、召会生活における組み合わせ
 ニー兄弟が受けたもう一つの啓示は、権威と建造に密接に関係のあるもので、それは召会の組み合わせに関する啓示です。地方召会のすべての肢体は、他の人と建造されるだけでなく、他の人と組み合わされる必要があります。召会の奉仕は、個人的に遂行されることはあり得ません。すべての肢体は、取り組んで奉仕しなければなりません。
四八、からだと霊的な戦い
 ニー兄弟の初期の務めにおいて、彼は霊的戦争を、個人的な面として見ていました。ところが、一九三九年から、それは個人的な事ではなく、からだの事であるのを見ました。エペソ人への手紙第六章の戦士は単独の信者ではなく、キリストのからだです。ニー兄弟は、もし信者が個人主義であれば、天にいる諸勢力と戦うのは困難である、と強く語りました。わたしたちが敵と戦うためには、からだが必要です。わたしたちは天にいる必要があるだけではなく、からだの中にもいる必要があります。
四九、聖霊の管理
 一九四二年から一九四八年までの期間は、ニー兄弟にとって苦難の時でした。この期間に彼が学んだのは、聖霊の管理の必要を見ることでした。それは、わたしたちの存在の再構成のためであり、わたしたちの外なる人が砕かれるためです。彼は、神は主権をもってわたしたちの環境を按配し、聖霊の管理を通して、万事を益とならせるように働かれることを見ました。聖霊はわたしたちの環境を按配し、環境を通してわたしたちを管理されます。それは、神聖な成分をもって、わたしたちの内側を再構成するためです。
五〇、外なる人が砕かれて、霊が解放される
 一九四二年から一九四八年、ニー兄弟は長期の苦難を経過している間に、外なる人が砕かれて、霊が解放されることを見ました。キリストの霊は、わたしたちの霊の中に住んでおられます。もしわたしたちの外なる人が砕かれていないと、キリストの霊を伴うわたしたちの霊は、わたしたちの外なる人の殻に制限されます。このゆえに、わたしたちの外なる人が砕かれることは極めて必要です。こうして、わたしたちの霊は、キリストの霊を伴って解放され、命を人に分け与えることができるのです。聖霊の管理は、わたしたちの天然の命のある面を破壊し、同時にわたしたちの外なる人を砕きます。
五一、霊を活用する
 ニー兄弟は、霊の解放について光を受け、同時に信者がどのように人の霊を活用するかを、学ばなければならないことを見ました。御言を供給し、福音を宣べ伝え、人と接触する時、日常生活の事柄でさえ、信者はまず、自分の霊を活用しなければなりません。彼らは思い、感情、知識を活用するのではありません。これらすべてのことで、霊はいつも先立つ必要があります。わたしたちの霊によって、わたしたちは他の人の霊に触れることができます。信者はただ霊によってのみ、命の霊を伝達し、命を他の人に分け与えることができるのです。
五二、働きの区域
 一九四八年、ニー兄弟は、召会は地方的であり、働きは区域的である、という啓示を受けました。召会は地方のことですが、働きは区域、あるいは地域のことです。ペテロの働きの下にあった諸召会は、それぞれの地方にありましたが、ペテロの働きは一つの地域にありました。その地域には、これらすべての地方が含まれていました。パウロの働きも同じであり、彼の働きを通して、諸召会が起こされました。
五三、いっさいの物を明け渡す
  ニー兄弟は、働きが目的を達成し、地方召会が実際に建造されるには、主の回復にあるすべての信者が、自分自身だけでなく、すべての持ち物を働きに明け渡す必要があることを見ました。このようにして、信者は、利己的であり、個人主義であることから解放されます。これはまた、信者たちが主の権威に服すのを助けます。それは、主が信者たちの持ち物を主の目的のために用いて、彼らにさらに多くの物質の祝福を与える機会を提供します。

 ニー兄弟が得た啓示は、これですべてではありません。彼は聖書から多くの光を受けて、さらに多くの事柄を見ています。それは、福音の真理や実行上の事柄、例えば、主日、結婚、衣服、金銭の取り扱いなどです。